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2024.02.16
闇夜に妖しくおどる紅蓮の炎に酔った奈良・若草山焼き
令和6年1月27日、古都奈良に早春の訪れを告げる伝統行事である「若草山焼き」を観覧した。
ということで、令和6年こそと関係者の方々も期するところがあったはずである。
毎年、ニュースで目にしては「あぁ!一度、見に行きたいね」と語るだけに終わっていた若草山焼き。
それが11月下旬のある日の夕食時、施設に入っておられる母君の見舞いで月の半ばを奈良で過ごすゼミの友人のことが話題にのぼった。
そのとき、細君が「もうすぐ若草山焼きね」とポツリと呟いた。
そのひと言で、なんととんとん拍子で奈良の道行きが決まった。
何せ、6回目の干支をこなしてきた、いまや逆算の人生を歩む老夫婦である。
思い立ったが吉日と、すぐに日程を相談し、寝場所を確保した。
山焼き当日は夕食を楽しむ余裕はないと、観覧予定地の奈良公園近くに気楽なホテルを探した。
そして、折角だからと予て気になっていた信貴山の朝護孫子寺にもお詣りしたいと、参道に建つ「オーベルジュ柿本屋」を二日目の「泊まってみたい宿」としてブログ掲載を決めた宿を予約した。
ついでに帰りに京都で一泊して、昨年無沙汰をしていた「割烹まつおか」に新年の挨拶を兼ねて立寄ることにした。
こうして三泊四日の若草山焼きの旅が流れ作業のようにまとまったのである。
それから奈良の友人に電話をして山焼きの情報収集をしたところ、車を出してくれることになった。また奈良市が募集している有料観覧席の手配もしてくれることになったが、残念なことに抽選の結果、後日、落選の連絡を受けた。
幼少時から町の商店街の抽選でも白玉ばかりでティッシュか飴玉くらいしか当たったことのないわたしである。当然の結末だといたって冷静に受け止めた。
そこからゆっくりと、山焼き翌日以降の予定を練ったのだが、それは次稿に譲る。
さて、山焼きの27日が近づくにつれ、奈良の天気が気になった。
ネットで調べると、若草山焼きがうまく燃え盛る年が少ないという情報ばかりが目についた。この時季は天候が不順で、雨や時によっては降雪、ひどいときは積雪というのだから、セッティングを勢い込んでやり遂げたものの、出立の日が近づくにつれ、だんだんとわれわれ二人の脳内には、奈良観光のポスターにある紅蓮の炎で燃え盛る若草山の景観が・・・山裾をチョロチョロと鬼火が走るショボイ映像へと変わっていった・・・。

そしていよいよ山焼き当日、奈良の天気予報は晴れ。前日はチラチラと降雪の予報であったが、雨男の身になんと僥倖! 事なきを得たのである。
京都駅から近鉄奈良駅へ。特急で30数分、ホテルチェックインの3時まで2時間ほどの時間があったので、まずは事前調査とタクシーで山焼きの御神火を大かがり火に点火する神事が執り行われる若草山山麓の野上神社へと向かった。
わたしはその行列から少し離れて鎮座する小さな祠で一人、準備をする根宜さんに、「ここが野上神社か」と訊ねた。
その間、細君はというと・・・地元のおじさんと何やら談笑していた。
これが一見の観光客には素晴らしく貴重な情報となったのである。
「ここで観てもあっという間に燃え尽きるので、山全体を一望するには奈良公園辺りからが最高だよ」ということで、当初予定通り奈良公園で安心して観覧することにした。
そして待ってもらっていたタクシーで、チェックインの時間までをつぶすため、ホテル近くの奈良国立博物館まで運んでもらった。
阿修羅像で著名な興福寺の「国宝館」も素晴らしいが、廃仏毀釈騒動のなか難を逃れてきた仏様やいまや廃寺となった寺院のご本尊などさまざまな仏像が所狭しと列ぶ様は圧巻である。
そしていよいよチェックインのため、当日の宿である「ホテル寧楽」へと向かった。
奈良博からは700mほどの距離である。
生駒山地の暗(クラガリ)峠越えで大阪へ至る「暗越(クラガリゴエ)奈良街道」を興福寺五重塔の袂辺りで猿沢の池へ斜めに下り、そのすぐのところに建つ4階建ての瀟洒な客室11室のホテルであった。
スタッフがまったくいない、無人のホテルだったのである。だから食事は勿論なしというか、誰もいない宿って・・・エッ?ということなのである。
前日にメールで入館と入室のPWと部屋番号が知らされる。それを持参して、ホテルのドアのパネルにPWを打ち込むという至って今風のITホテルだったのである、部屋までたどり着けるか・・・ドキドキなのである。
「ガチッ!」と音がして、扉を押すとホテル内には入れた。まずはひと安心。
ホテルで待合せていた奈良の友人も、初めての体験とあって興味津々の様子。
二階の部屋でまたパネルに暗証番号を打ち込む。
最後に「LOCK STATE」のボタンを押すとのこと。「カチッ!」ドアが開いた。成功!!
3人合わせて210ウン歳の老人たちは快哉を叫んだ。
そして先に部屋へ入った細君が「あら、広い」とひと言。
靴を脱ぎ(このホテル、入室時には靴を脱ぐシステム)、足を踏み入れた部屋は清潔でいたってシンプルな造作。
素泊まりの若い人たちには一新された猿沢の池や興福寺至近の立地といい、コスパ最高と、好評なのだろうと納得。
そこでひと休みしてから6時15分に打ち上げがはじまる花火に間に合うように奈良公園へと出立。
道中、「奈良でこんなに多くの観光客を見たのは初めてじゃないかな」と友人がつぶやく。
公園が近づくにつれ、多様な言語が耳に入り、まるで民族大移動の様相をていしてくる。東大寺南大門先の浮雲園地に場所をとった。
定刻の6時15分過ぎに「ボッ!シュルルル・・・」
暗闇となった夜空を見上げる。
色鮮やかな大輪の花火がひらく。
「うお~!!」 大歓声が湧き上がった。
「うお~!!!」
いよいよ山焼きの饗宴がはじまったのである。
風はほとんどなく、澄みわたった夜空に次々と花火があがる。
地鳴りのように一斉に賞賛の叫び声が上がる。
そして15分が経った頃、花火は終焉、遠く山裾と思しきあたりに点々と橙色の炎がちらつきはじめる。
点がつながりはじめる・・・
橙色の線になる・・・ 「アッ!燃えてる、燃えてる!!」
順調に燃え出したようである。
ここで、友人が説明してくれた若草山焼きのポスターの大事なカラクリを紹介しなければならぬ。
薬師寺の東塔と西塔の間に全山朱色に染まった若草山を撮った有名な写真は、シャッターを開いたまま1時間余、三脚で固定して撮ったもので、だから全山が燃えていると勘違いする人が多いという。
ただ、ビデオで分かるように、遠くからでも火勢が強いことがよく見えた。
ついでに友人は山焼きの有名な撮影スポットへも案内してくれた。
薬師寺の西南にひろがる大池越しに西塔と東塔の真ん中に若草山を見る絶景スポットであった。
翌日、京都に入り、「割烹まつおか」で山焼き観覧の様子を話したところ、今年はよく燃えたとニュースで云っていたと知らされ、二人して鼻を高くし、来てよかったと満足したものであった。めでたしめでたし!!!
2024.01.07
NHK大河ドラマ「光る君へ」、紫式部と共に生きた女たち
平安朝の摂関時代華やかなりし頃、この小さな島国に世界に類を見ない多くの優れた女流作家、歌人の輩出をみた。
そんな仮名文学に触れた青春時代、といっても、受験科目に古文が必須であったことから仕方なく難解な言い回しの古語の世界をのぞき込んだというのが正直なところであった。
夏休みを利用し初めて通読したのが菅原孝標(たかすえ)の娘が著した「更級日記」であった。
そこには13、4歳の少女が紫式部描く五十余帖の「源氏物語」を「几帳のうちにうち臥して引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ」と、源氏物語を読める幸福感の前には皇后の位なんかクソくらえと、物語の世界にどっぷりと耽溺している姿が描かれていた。
果てには、「光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ」と、光源氏に寵愛された夕顔や薫の想い人であった浮舟のようになりたいと、妄想を掻き立てているにいたって、当時十八歳であった私は随分ませた娘だなと思ったものだ。
当方、奥手だったのか、源氏の深遠な愛憎劇は難解で、試験問題も苦労したものだ。
そんな王朝時代の女たちのしるした日記や物語のなかに石清水八幡宮や石山寺といった名を度々目にしたのである。
それから半世紀を優に過ぎたころ、後宮官女たちが詣でたという彼の地を訪ねた。
琵琶湖の南端、瀬田川に裳裾を落とす伽藍山(標高236m)の麓に石山寺はある。
遠出の機会の少なかった平安時代、王朝貴族たちが物詣(ものもうで)先として足を運んだ代表的な寺院であった。
物詣とは神仏祈願が目的なのは当然だが、その道中の景色を愉しみ宮廷生活の息苦しさを忘れ、しばしの解放感を味わうプチ旅行といったものである。
ところが宮廷サロンで活躍した十二単の才媛方にとって、石山寺は息を抜く先というよりも悩ましい男女の愛憎ドラマの舞台となるなど異彩を放っているのである。
譬(たと)えば、夫が新たに通いつめる女への嫉妬の炎を鎮めようと石山寺の観音堂に籠った藤原道綱の母、更級日記の作者の伯母にあたる人物であるが、その著・『蜻蛉日記』に、間遠くなった夫を思い、石山寺堂内で一晩中泣き明かしたすえに見た夢の内容を記している。
それは寺の別当に男性の象徴とされる銚子で膝に水をかけられたという艶っぽいというか女の業を感じさせるエロティックなものである。フロイトも驚くこの霊夢、おぉ~怖っ!と腰の引けた男性方、気をつけて!!
また、冷泉帝の皇子・敦道(あつみち)親王との恋の駆け引きに疲れ切った和泉式部。彼女は紫式部と同じ藤原道長の娘・中宮彰子に仕えた女房の一人だが、都から逃げるように石山寺に身を隠し参籠していると、その想い人から手紙が齎(もたら)される。そこで、「あふみぢは忘れぬめりと」、歌を贈る。わたしのことなど疾うに忘れたはずなのに、逢坂(あふさか)の関を越えてまで便りを届けてくれたのはいったいどなたと、いじらしく拗(す)ねて見せる。これぞ年増女の手練れの技。
この後、数度の交信を経てさっさと都へ戻った和泉式部。親王から仏の道を途中で抛(ほう)り投げて「あさましや」と呆れられるや、「今ひとたびのあふことにより」と、今度は“貴方に逢いたくて~♪”と一気に歌いあげる。この一連のやり取り、さすが多情奔放の恋の達人たる面目躍如である。
一方で、幼き頃、源氏物語に夢中になった『更級日記』の菅原孝標女(たかすえのおんな)も、一七、八歳になっても読経もせず物語の世界に耽溺(たんでき)してきたのは余りに幼すぎたと反省し、現世の御利益や後世の往生を願おうと石山詣でへ向かう。
その道中、逢坂の関で雪に見舞われるや、「昔越えしも冬ぞかし」と35年前に東国から上京する途次、早く物語を読みたいと胸をときめかせこの関を越えたことを懐かしみ、「年月の過ぎにけるもいとあはれなり」と感傷にひたる。
こちらは歳を重ねても夢多き心映えが現生利益へと思いは変わったようで、先のお二人とは様相が少々異なる。
そして、参籠中に「中堂より麝香(ざかう)賜はりぬ。とくかしこへつげよ」と奇妙な夢を見ると、これは慶事の前触れに違いないと一晩中、誦経に励んだとある。かつて夢見る乙女であった人もいずれはこんな風に現金な姿になるのだと妙に納得してしまう飾らぬ女性ではある。
さて、「寺は壺阪。笠置。法輪。霊山は・・・あはれなるなり。石山。粉河(こかわ)。志賀」 、あまりにも有名な「枕草子」の一節である。石山寺を僅か二文字で昇華させたあたりはさすが王朝サロンの一方の旗頭、切れ味鋭い清少納言である。
そんなこんなの石山詣で。ご本尊の如意輪観音さま、いくら煩悩を打ち砕く法輪を手にしているとはいえ、艶めかしい御仁、また霊場を恋の道具立てに駆使して動じぬ女房、そして乙女心とリアリストの二面性を矛盾なく併せ持つ女人、果ては明晰な理屈で乱切りする女傑など多士済々の才媛にはタジタジといったところではなかろうか。
そして最後に控えるのが、王朝サロンの大スター、NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公、紫式部。
『石山寺縁起絵巻』に、物語の着想を得るため七日間参籠したとある。十五夜の月が琵琶湖に照り映える情景に接し、「今宵は十五夜なりけり」と不朽の名作・『源氏物語』の筆を落とした。
石山寺の本堂内に千年を経た今もなお、執筆に使った“源氏の間”がそのままリザーブされているとは、さすがは“日本紀の御局”と渾名された大物と感服するしかない。
『紫式部日記』のなかに後宮に伺候する女官たちの品定めの記述がある。譬えば、「若人の中もかたち(器量)よしと思へるは、小大輔、源式部」などと十一人の名を列挙し、褒めそやす。冒頭で欠点は言わぬと断っておきながら、文末にくるとこの容姿端麗な女官たちも「心ばせ(気立て)」という点ではこれはと思う人がいないとバッサリ。何のことはない、結論で辛辣に赤点をつける紫式部ではある。さすが透徹した観察眼と評するべきか、ただ単に底意地が悪いだけなのか判断は苦しく、難しい。
さらにその人物評はつづき、同僚の和泉式部さえも「けしからぬかた」と腐(くさ)し、古歌の知識がなく理論も覚束ない「まことの歌詠み」ではないとこき下ろす。
その極めつけが、かの有名な「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人」からはじまる激越な酷評の下りである。「さかしだち(利口ぶって)」、「いとたらぬこと多かり」と散々である。そして最後のとどめに、「あだになりぬる人のはて、いかでかはよくはべらぬ」と、浮薄な人の涯などロクなことはないと言って退けるのである。才能への嫉みであろうか、あまりの凄まじさに背筋が凍ったのはわたしだけではなかろう。
式部のいう清少納言の晩年の落魄(らくはく)ぶりは、著名人の暴露話や秘話を集めた鎌倉初期の『古事談』に二話掲載されている。そのひとつに「鬼形の如きの女法師・・・」と変わり果てた鬼相となってもなお、清少納言が「燕王馬を好みて骨を買ふ事なり」と戦国策の一節を引用し悪態をつく様子が描かれている。
中宮定子に出仕した清少納言と関白藤原道長の娘・中宮彰子に仕えた紫式部。両人が後宮にあった時期は重ならぬが、先に名声を博した清少納言は定子の死去と共に宮仕えを辞去する。その後の零落ぶりがあざとくも大袈裟に語り継がれたことは、紫式部による酷評と相俟って、漢籍を自在に操る清少納言という希代の才媛が熱い憧憬を巷間から集め、時代の寵児であったことを逆に証明しているのだと言ってもよい。
それからすると、伯母と姪の血縁にある蜻蛉日記と更級日記の作者は紫式部とは世代が前後にずれ、確執を生む関係にもなく、その舌禍に遭わなかったことは幸せであった。
珪灰石(けいかいせき)という珍無類の岩盤に拠る石山寺の奇怪な景観に触れた後宮女官たち。邪な心や仏にすがる直向(ひたむ)きな思いなど数多の想念がこの森閑とした本堂に充溢していると感得したとき、人の一生とはあまりに儚く矮小であると悟らされる。それ故に千年の時を経ても、その才媛たちの生き様や懊悩はあまりにも身近にあり、全き共感すら覚えてしまうのである。
2023.12.22
今年も、はや冬至! 一年がますます駆け足になってゆく
今年も師走にはいったと思ったらもう冬至。
恒例のゆず湯に一番風呂。と言っても、夕食の準備をしてもらっている細君より先に入ったというだけ・・・
気持ちがいい~!!
それにしてもなんだか年々、柚子の個数が減ってきているような・・・
その大宗は余生を送る二人にとっての楽しみとしている旅のことどもであった。
弥生にまず宇治を訪ねた。
来年になれば大河ドラマ「光る君へ」がスタート。
源氏物語の宇治十帖の薫と匂宮、きっと観光客が押し寄せるはず。その前に行っておこうと二人で申し合わせ、ひっそりと押し寄せたのである。
まず、しだれ梅園が有名な三室戸寺に参詣。
山腹の傾斜地にひろがる今を盛りの梅園を散策した。
さらに前から気になっていた日本最古の神社建築である本殿を擁す宇治上(ウジカミ)神社への参拝をようやく叶えた。
応神天皇の皇太子であった菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)をご祭神となす式内社である。異母兄である仁徳天皇に皇位を譲るため自殺したといわれる皇子である・・・
もちろん、宇治川にかかる朝霧橋の東詰めに建つ宇治十帖の“薫と匂宮”像も訪ねた。
最後には宇治橋の袂に建つ“紫式部”の像も当たり前だが、パチリ!!
皐月には、かねて夢であった北海道のドライブの旅。
大洗から苫小牧へ往復フェリーを使ってのマイカー旅。
総移動距離3800kmにおよぶ大旅行を敢行した。
富良野から留萌へ出て、日本海沿いに北上、稚内・宗谷岬を経て紋別、網走、知床、根室、弟子屈(テシカガ)、帯広とほぼ北海道の3/4を踏破した。
納沙布岬では北方四島を遠望するオーロラタワーが廃墟と化し、訪れる人もほとんどなく、北方領土への関心が致命的なまでに希薄になっていることを痛感した。
文月にはコロナ後、初めての本格的に執り行われた祇園祭に興じた。
久々に盛り上がったのはよかったが、人出が多すぎて閉口した。
そして師走になって息子家族を伴い、金閣寺、清水寺、天龍寺と久々のお上りさん観光を愉しんだ。
ちょっと孫に日本の美を知ってもらいたいと、デヴィッド・ボウイが愛した比叡山を借景とする正伝寺の日本庭園を教えてやった。
有名どころには修学旅行生の団体が復活し、インバウンド客の増嵩とも相俟って、京都市内は大変な状況となっていた。
清水さんの三寧坂が上り下りの人の行列で立錐の余地もないほどに人で埋め尽くされていたのには仰天した。
これ以上昇るのは危険だと断念し、私一人、仁王門の下で一人残り、清水の舞台を目にすることができなかった。
そうした楽しい思い出の一方、老人特有の病に襲われ、とうとう前立腺肥大症の手術をおこなった。
前立腺レーザー蒸散術 PVPという出血の少ない方式で、バイアスピリンを服用しているわたしには最適な手術であった。
熟練の主治医であったため、いまはきわめて快適である。
7月の下旬から手術、回復期と、合せて3か月半の断酒および旅行自粛の期間であった。
8月の下旬に高知の四国カルストや仁淀ブルー、朝ドラらんまんの牧野植物園の旅を計画していたが、あえなくホテルをキャンセル、涙をのんだ。仁淀ブルーの旅ははこれまで台風や大雨で二度計画し、中止の憂き目にあっているので、これで三度目のキャンセルである。
そんな苦境?にあっても久々に娘と細君との3人旅を予約していたので、葉月に熱海一泊の旅だけは不安を抱えながらも何とか根性で行ってきた。
そんなこんなのジェットコースターのような6回目の干支年もあと9日間で終わろうとしている。
7月中旬までは登り調子であった今年、7月末からは一転、急降下で谷底へとなだれ落ちていった兎年。
ようやく11月へ入り前立腺の不安もなくなり、気持ちよく酒席にも参加し、師走に入って大好きな旅も復活させることができた。
振り返ると、まぁいろいろあった干支の年であったが、終わりよければすべてよしということで、おおむね大過なく過ごせたということで満足としなければならない。


















































